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You Will Die at 20 汝は二十で死ぬ

スーダン映画 (2019)

ドバイ生まれでスーダン育ちのAmjad Abu Alala監督の初監督作。ヴェネツィア国際映画祭では、初監督の最優秀作品に贈られるルイジ・デ・ラウレンティス賞を獲得した。アミアン国際映画祭の作品賞ほか5つの賞に輝いている。恐らく、その理由の1つは、この映画がスーダンで撮影・製作されたこと。スーダンといえば、悪名高きバシール政権下で、「今世紀最大の人道危機」の1つ〔他に、シリア難民、ロヒンギャ難民〕と言われるダルフール危機が起き、自衛隊も派遣された。幸い、2018年12月以降始まった市民のデモに軍が支援する形で 2019年4月11日にバシールは解任された。この映画は、2019年8月29日にヴェネツィア国際映画祭で上映されたが、4ヶ月で完成したはずはなく、一体どうやって撮影したのだろう? もう1点は、映画の主題となる 「汝は二十で死ぬ」という言葉。これは、首都ハルツームの南に位置するジャジーラ州に住むサキーナという女性が、生まれたばかりの赤ちゃんに祝福をしてもらおうと、地元で崇拝されているシェィフ〔賢人、教主〕のところに連れて行った時、トランス状態にあった踊り手が20まで数えた時に失神したため、シェィフは 「アッラーのご指示からは逃れられん」と宣言し、それが、この赤子ムザミルの “変え難い運命” として全員が100%信じてしまったこと。20世紀末に、一種の “シャーマンの呪詛” に近い発言を村民全員が信じるとは ショッキングだあらすじの冒頭で “知られざる” 背景について詳しく分析する〕。ムザミルの短い少年~青年時代は、「二十になったその日に死ね」という運命に強く支配されてしまう。母はいつも喪服を着、ムザミルは学校に行かせてもらえない。恋もできない。ただ、受動的に生きるだけ。こうした展開は、ある意味 実に新鮮で、「映画は尽きない驚きと体験」を与えてくれる媒体だと強く感じさせる。3つ目は、スーダンの珍しい風景。ジャジーラ州には青ナイルが流れているが、エチオピアの大瀑布は知っていても、スーダンではこんなに穏やかだとは知らなかった。なお、この映画は、全近代的な内容となっているが、映画の中で、中国Dayun(大运)社のモーターサイクルが登場する。Dayunのブランド名に変更されたのは2009年以降なので、この映画は現代のスーダンを扱ったものだ。

20世紀末のスーダン南部で1人の赤ん坊がシェィフの元に祝福に連れて行かれる。ところが、祝福の最中にデルビッシュの踊り手が、20までカウントしたところで突然倒れてしまったので、この「20」が赤ん坊の寿命とみなされる。父は、その苦痛に耐えられず、国外に働きに出てしまい、母は喪服をきて子育てを始める。その後、映画は2部に分かれ、最初が10歳前後、2つ目が運命の20歳を迎えるまでを描く。二十になった時に死ぬと運命付けられた子供の名前はムザミル。母は、「どうせ20で死ぬ」と信じ切っているので、学校にも通わせず、ほとんど家に閉じ込めて育てる。そして、1週間が過ぎる度に壁に線を7つ引き、時間の経過を記録する〔カレンダーがない〕。ムザミルの宿命はあまりにも有名なので、彼の住む小さな村の悪戯っ子からは、「死の息子」とからかわれる。それでも、ムザミルと同年配の女の子ナイマは、彼に好意を持ってくれた。また、村のイマームは、ムザミルが神の教えも知らずに死ぬことを嫌い、母に、モスクのマドラサに来てコーランを学ぶことを勧める。ムザミルは抜群の記憶力を持っていたので、この出来事は、ムザミルの人生を変える。ムザミルが20歳間近になった時、ナイマは、はっきりと彼との結婚を考えるまでになっている。そして、ムザミルは2種類の朗誦法でコーランを暗唱できるまでになる。ここまでは、少年時代からの延長線上にあることだが、新しく加わったこともあった。それは、少年時代から手伝っていた村で1軒しかないファギリの店の仕事で、芳しくない噂の持ち主に、イスラムでは禁じられているウォッカを届けたことから始まる。この男の名はスレマン。父親と喧嘩して家を飛び出し、世界中を歩き回ったきた年配の男で、昔自分で撮影した16ミリフィルムや、古い映画フィルムも持っている。そして、スレマンは、異質な知識と教訓をムザミルに与える。これは、死しか考えない母や、ハマってしまったコーランとは違い、ムザミルには新しい世界だった。ムザミルが父親のように慕うスレマンが口にした最重要の言葉は、「罪を犯してみろ」だった。ナイマが、ムザミルの優柔不断な態度に絶望して他の男と婚約し、スレマンが病死し、19歳の最後の夜を迎えたムザミルは、その言葉に従い、意図的に重い罪を犯す。そして、永遠に目が覚めないと思って寝る。しかし、翌朝、生きて起きることができた。喜んだスレマンは、誰にも知らせずに村を出て、スレマンのように世界を目指す。

少年時代のムザミルを演じたのはMoatasem Rashed。情報はゼロ。

あらすじ

近郷から集まった大勢のイスラム教の信者たち。中核にいるのは緑のガラビア〔民族衣装〕をまとったスーフィー〔sufi〕たち。この映画で、初めてスーフィーという言葉を知った。「https://www.amorc.jp/reference/material_055.html」には、「スーフィズムを信奉している人たちはスーフィーと呼ばれ、預言者ムハンマド(モハメット)の教えの中でも特に神秘学的な部分を受け継いで保持している。従って、スーフィズムを端的に言い表すとすれば、イスラム教の神秘学であると言える。スーフィーは、イスラム世界の内部に教団を作って暮らしている。そして、一般的なイスラム教徒としての義務に忠実に従うことに加えて、預言者ムハンマドが創設したイスラム教の高度な理想を実現するため、自ら進んで特別な精神面の修練を取り入れている」と書かれている。これだけだと、ごく特殊な一団のように見えしまうが、「https://interactive.aljazeera.com/aje/2015/sufi/index.html」には、「スーダンのスーフィズム」と題して、「スーダンには、世界でも最大のスーフィーのコミュニティの一つがある」と書かれている。さらに、普段は絶対見ないウィキペディア(https://en.wikipedia.org/wiki/Islam_in_Sudan)には、「スーダンのイスラム教徒の大多数は、スーフィズムに影響を強く受けたマーリキ法学派(スンニ派)を遵守している」と書かれている。また、2006年の「連載講座 中東の政治変動を読む」には、「2006年5月2日付けの『ワシントン・ポスト』紙に、「サウジアラビアでスーフィズムが復活」と題する 非常に興味深い記事が掲載された」とある。その背景にあるのは、スーフィズムが「中東で蔓延しているジハード主義のような排他的なイデオロギー」に対抗できるという期待感だ。米国のフォーリン・ポリシー誌のサイト「FP」の2009年6月10日版(https://foreignpolicy.com/2009/06/10/state-sponsored-sufism/)によれば、「BBCやエコノミスト誌、ボストン・グローブ誌の解説者によれば、スーフィズムは、暴力的なイスラム過激派に対処するための必須の手段であり、西欧の最大の味方だ」というコメントに、その期待感が現れている。その結果は、2017年11月の、エジプト近代史上最悪のテロ、イスラム過激派によるスーフィーモスクの襲撃(305人以上が殺害)などの悲劇を生むことになる。こうした、現代の世界史の中で、改めてこの映画の陰の主役であるスーフィーを見ることは重要であろう。
 ここで映画に戻り、サキーナは、この集会の中心人物であるシェィフ〔賢人、教主〕の前にひざまずき、赤ん坊を見せ、「祝福を頂きに参りました。私の息子のムザミルです。神様も祝福して下さりました。アルシャフィイ〔8-9世紀の有名な神学者〕が夢に現れたのです」と嬉しそうに言う。シェィフは赤ん坊を抱くと、「アッラーのご意思で顔が輝いておるな」と赤ん坊を褒める(1枚目の写真)。シェィフの後ろでは、シャーマンを思われる踊り手が、「アッラーを讃えよ、12」と口ずさむ。シェィフは皿から豆(?)のようなものを口に入れ、噛み砕いた物を赤ん坊の口に入れる。その間に、踊り手は、「アッラーを讃えよ、17」「アッラーを讃えよ、18」と数を上げていく。シェィフは、「この子が、両親を誇りに思うようアッラーにお願いした」と言いながら、赤ん坊を母に戻す。「アッラーを讃えよ、19」。「この子の寿命は…」〔長寿と言おうとした〕。その時、踊り手が、「アッラーを讃えよ、20」と言い、途端に倒れて意識を失う(2枚目の写真、矢印)。一瞬、その場の空気が凍り付く〔「寿命は20」〕。群衆の中から、「アッラーは全能なり」「可哀想なサキーナ」の声が上がる。サキーナは、「シェィフ、これはどういうことですか?」と尋ねる。シェィフは、「皆の者。これはアッラーの予言じゃ」と言うと、サキーナには、「すべての運命は決まっておる。予言は神聖なものじゃ。アッラーのご指示からは逃れられん」と諭すように言う。これで、村人全員が、“ムザミルは二十になったその日に死ぬ” と運命付けられたと信じる。サキーナは、赤ん坊を抱くと、茫然として立ち去る(3枚目の写真)。背後の緑のガラビアがスーフィーたち、サキーナの左のカラフルなトープ〔民族衣装〕姿が村の女たち、右の白のガラビアが村の男たち。スーダンにおけるスーフィーの “重要度” は決定的なので、これは “死刑宣告” にも等しい。誰一人として、この宣告を疑う者はいない 。

家の近くの畑のような場所で、サキーナの夫が、半分枯れたような背の高いもの〔アシの一種?〕を刈っている。そして、タイトルがアラビア語と英語で表示される〔ここで、調べてみて違和感を覚えたのは、その “荒れた” イメージ。なぜかと言えば、ここはジャジーラ州で、後で出てくるが鉄道が通っている。資料には、青ナイルで灌漑が行き届いていると書いてあったが、本当かと思ってグーグルマップの航空写真を見てみたら、鉄道の沿線は、州内全域で、きれいに区画された畑が一面に広がっている〕。彼の顔は絶望に満ちている。そして、夜。夫は、サキーナの前で、「もうできん。『死』が、俺を不安にさせる。1・2年、アジス・アベバ〔エチオピアの首都〕に行く。仕事を見つけ、金を送る」と告げる(1枚目の写真)。サキーナは、「お金なんか要らない、一緒にいて欲しい」と頼む。しかし、弱気な夫は、「俺の弟のアッバスを覚えてるか? 今でも、あいつがナイルで溺れた夢を見る。すぐ横に立っていたのに、何もしてやれんかった。サキーナ、お前は強い。俺にはできん」と言う。そして、妻と赤子を残し、線路の上を歩いて去って行った(2枚目の写真、歩いていく映像は、ワザとピンボケに撮影されているので、その直前に映る全景を使った)。サキーナは、家の奥の壁までいくと、床に落ちていた硬い物を拾い、壁に縦線を6本 右から左に引くと、最後に、左から右に、縦線を貫くように横線を引く(3枚目の写真、点線の範囲内)。これは、誕生から7日が経過したことを示す。彼女は、これから毎週1回、息子の20年目の誕生日の1日前まで、これをくり返すことになる〔既に喪服を着ている〕

次のシーン。ムザミルは少年になっている。彼は、壁から身を乗り出して家の外をこっそり眺める。ムザミルの家は、荒れ地との境に立っているので、子供たちが土の原っぱの上でサッカーごっこをしている。そこに、1人の女の子がやってきて遊びに加わったので、ムザミルは首を伸ばす(1枚目の写真)。お陰で見つかってしまい、子供たちの1人が、「ムザミル、死の息子」と指差して言うと(2枚目の写真)、他の子もそれに唱和する。ムザミルは、慌てて顔を隠す。母は、息子を呼びつけると、外と同じ茶色の土しかない庭に置かれた小さなテーブルに、丸い大きな盆を置く。そして、蓋を取ると 「お食べ」と言う(3枚目の写真)。「お腹空いてない。他の子たちと外で遊びたい」〔彼は、学校にも行かせてもらえない〕。母は黙って1人で食べ続ける。「ゲバラーと、川に行っちゃダメ?」。「川? ダメ」〔20歳になるまでは、逆に、何をしても死なないハズなのだが…〕

台詞のないシーン。ムザミルは、母と一緒の寝台で寝ているが、朝が来たので1人で起き出す。その時、蚊帳をまくり上げ、上手に体だけ外に出す(1枚目の写真)〔母がまだ中にいる〕。スーダンは、マラリア感染地域なので、こうした予防策が必要。ここで、経験のない方には、蚊帳の下端が寝台の上にあることに注意されたい。2枚目の写真は、私が、かなり前、マラリア感染地域にある旧植民地時代の格式あるホテル〔現代風に改装されていない〕に泊まった時のもの。最初の日、何も注意書きがなかったので〔ツアー旅行ではない〕、蚊帳を床まで垂らして寝てしまった。そうしたら、変な虫が蚊帳を伝って寝台の中に侵入し、朝起きたら脚を這っていた。そこで、翌日からはマットレスの下に蚊帳の端を押し込んで寝ることにしたら、侵入は100%防ぐことができた〔敵は、ハマダラカだけではない〕。ムザミルは窓の外を見ると〔暑いので開けっ放しで、蚊帳だけある〕、もう一度寝台に戻り、母の体に身を寄せ 胸の音(心音)を聞く〔これは、ムザミルが時折見せる仕草で、後で3回出てくる。この場合は、この直後 母の言いつけに背いて川に行くので、母が熟睡しているかを確かめただけであろう〕

ムザミルは、ナイル川の岸に行く。そして、恐る恐る水に近づいて行く(1枚目の写真)。そして、水の中に足を踏み入れる。10歩ほど歩いたところで、カメラは、後ろで見ている4人組を写す(2枚目の写真)。そのうちの1人、先のシーンで、真っ先に「ムザミル、死の息子」と呼んだ意地悪が、「ムザミル」と呼びかける。「溺れる気か?」。そこ言葉でバランスを崩したムザミルは、浅い川の中に倒れ、生まれて初めての水に恐れをなして必死で岸に這い上がる(3枚目の写真)。

泣きながら家に戻ったムザミルが家に戻ると、母は起きていて、「私が寝るのを待ってて、出かけたのかえ?」と訊く。答えたくないムザミルは、「アル・ハリファ〔予言したシェィフの名前〕は、僕がどう死ぬって言ったの?」と訊き返す(1枚目の写真)。「どうとは言ってない」。「溺れるの?」。「死ぬことに変わりはない」。母は、そう言いながら、壁に1週間が経過した印をつけている(2枚目の写真)。あと10年ほどで着実に死が訪れることを確信している母と子の心情を理解することは困難だ。ムザミルは、「父さんに会いたい」と言いながら、外に出て行く(3枚目の写真)。

ここで、初めて村の路地が映る(1枚目の写真)。壁もすべて地面と同じ “土” の色、すべてが「泥=日干し煉瓦」でできた世界だ〔参考までに、詳しく知りたい方は、サウジアラビアのカーシム(Qassim)大学の建築計画学部視覚コミュニケーション学科長の論文「スーダンとサウジアラビアの伝統的泥建築━使用技法の相違」(英語)が、写真付きで分かりやすい(→pdf を download〕。2人が向かった先は、村に1軒しかない店。母:「ファギリ、元気?」。店主:「今日は、サキーナ」。「油とレンズ豆とソラ豆を」。横にいた伯母から、「旦那から便りは?」と訊かれた母は、「あんまり。時折しか書いてくれないの」と答える〔後で、母は、全然返事を出していないことが分かる〕。「何て恥知らずなの。あんたに重荷を負わせておいて」。その間に、店主は、母の買い物籠に商品を入れる。「つけておいて」。「いいよ」(2枚目の写真)。店を離れた直後、村のイマーム〔導師〕が、「平安あれサキーナ」と声をかける。「今日は、イマーム」。「アッラーに感謝を」。そして、本題を話し始める。「ムザミルは大きくなった。だが、青白い。いいか、彼をいつも家に閉じ込めておくのは正しくない。子供は、外に出て遊ばないと。私の元に寄こし、学ばせなさい」。「短い命しかないのに、知識が何の役に立ちます?」。「責任の取れる男として、20で死ぬか? 責任も取れない子供として死ぬのか?」(3枚目の写真)。「責任の取れる男です」。「責任の取れる男が、コーランも知らなくいいのか?」。この言葉が、ムザミルの人生を変えることになる。

恐らく翌日、サキーナはムザミルを連れてイマームのマドラサ〔学びの舎〕に連れて行く(1枚目の写真)。開きっ放しの入口からは、コーランの冒頭の「慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名において」が聞こえてくる。イマームがそれを唱えると、子供たちがそれを復唱する。2人は中に入る(2枚目の写真)。イマームは、「ムザミル、こちらに来て座りなさい」と言って 近くに座らせると、「これでよい。サキーナ、出て行きなさい」と命じる(3枚目の写真)。そこから、しばらくコーランの朗読が続くが、調べてみたら、それは、コーラン〔全114章〕の終わりの方にある「102.蓄積章」。偶然、死にまつわる部分だ。「伊斯蘭文化のホームページ」では、この部分の訳は、次のようになっている(第8節まであるが、映画は7で終わっている)。
 1. あなたがたは多いことを張り合って、現を抜かす。
 2. 墓に追い立てられるまでも。
 3. いや、やがてあなたがたは知ろう。
 4. もう一度言おうか、いや、やがてあなたがたは知ろう。
 5. いや、あなたがたは はっきり知るとよいのである。
 6. あなたがたは必ず獄火を見よう。
 7. その時 あなたがたはそれを明確に目で見ることであろう。


ムザミルが、ファギリの店の届け物をある家に持って行く。母は、ムザミルを外に出そうと、このような仕事をさせたらしい〔ムザリムとファギリの関係は、彼が青年になっても続く〕。ムザミルが、指示されたように台所に持って行くと、一人の少女ナイマが野菜を切っていた。ナイマは、「最初はモスクで、今度は家?」と訊く(1枚目の写真)〔ナイマは、ムザミルに関心があり、マドラサでもチラとムザミルを見ていた〕。次のシーンでは、伯母の飼っている馬を、ムザミルがナイマと一緒に撫でている(2枚目の写真)。そして、すぐにシーンは変わり、2人はナイル川河畔の小さな岩の座っている。ナイマ:「向こう岸のこと知ってる?」。「ううん」。「カンボよ。悪い人たちなの。不道徳なのよ。淫らなの」〔カンボ:ネットで調べても、「スーダンの農業地帯に住む悪名高いカンボ」という標記が “Sudan Tribune” にあっただけ〕。「どんな風に?」。「女性が男性にキスするのよ」。「どこが悪いの?」。「あんた、おかしいんじゃない? 知らない男性に、女性がキスするなんて間違ってる」。「もし、知ってたら?」。「知ってて、愛してるなら いいわ」(3枚目の写真、赤い帽子を被っているのは、友達のゲバラー)〔ここに出てくる、ファギリ、少女、馬、ナイル河畔の3人、キスの意味は、青年になってからのシーンにも現われる〕

ある日のマドラサ。ムザミルは暗記する力が抜群なので、イマームはつきっきりで教えている(1枚目の写真)。そして、区切りがつくと、「アッラーに感謝を。引き続き、記憶するように」と言った後、「また戻って来る」と付け加えて出て行く。それを待っていた4人組は、すぐに立ち上がるとムザミルの前に行き、「死の息子、ふざけて遊ぼうぜ」(2枚目の写真)「お前が今日死ななかったら、ずっと死なずに済む」と言うと、4人でムザミルの両手両足をつかみ、どこかに連れて行く。そして、上着を脱がせると、体に灰をこすりつける(3枚目の写真)。そして、死体のように白い布でぐるぐる巻きにした後で、金属の箱に入れてロックする(4枚目の写真)〔南スーダンでのUN活動に絡めて似たような金属の箱が死体を入れるのに使われてはいるが、映画のこの箱がそのような目的のものかどうか不明〕

ムザミルの少年時代はここまで(1枚目の写真)。青年時代への橋渡しとして、2人が映るシーン(2枚目の写真)が挟まれていて、分かりやすい。青年時代は、全体の8割に当たるが、詳細な紹介はこのサイトの主旨ではないので、ここでは、ムザミルと、①ナイマ〔子供時代からムザミルが好きだった少女〕、②スレマン〔昔、父の友人だった男で、広く世界を見てきたお陰で、ある意味 異端者となり、ムザミルにとってメンターにもなる〕について重点的に触れる。

青年になって初めての場面。朝、ムザミルは母に起こされ、父が母に出した手紙を渡される。そこには、①別れて20年近くが経過し、エチオピアからケニア、セネガルと渡り歩き、今リビアで働いていること、②妻から一度も返事をもらってないこと、③アル・ハリファに息子を連れて会いに行き、神の慈悲で “運命” が変わっていないか確かめるように、と書かれてあった。母は③に従い、ムザミルを連れてアル・ハリファに会いに行く(1枚目の写真、母は、ムザミルの少年時代もそうだったが、さらに10年ほどが経過しても、相変わらず “喪” を意味する黒いチャドルを着ている〔イランと違い、スーダンの女性は日常的には黒を着ない〕)。ところが、家に会いに行くと、先代のシェィフは亡くなっていて、若いシェィフが2人を迎え入れる。そして、母が 会いに来た理由を話すと(2枚目の写真)、外で待つように言われる。シェィフは、ムザミルに、「アル・ハリファは間違ったことは言わない。だが、全能なるアッラーに伺ってみよう」と言うと、上半身を裸にさせ、聖水を振り掛けると、手のひらで水のかかった体を撫でながら、「アッラーに感謝を。美しき若者、公正なる聖徒と預言者の重荷という光を受けた者よ。聞くがよい。汝の罪業を知るには時が足りない。アッラーが魂を要求されるまで、私とともにここに留まり、家の者と客人に仕えるのだ」と言う。なぜか、ムザミルはこの指示には従わない〔この無意味なシーンは失敗/バラエティ誌の評にも、「このシーンは、物語に何の影響も与えず、その後は 何も起きなかったように無視されている」と批判的に書かれている〕。次のシーンは、息子を連れて家に戻った母が、夜、1週間が経過した印を、壁に描く場面(3枚目の写真、壁のほとんどが印で埋め尽くされている。20年近いと単純計算で1050個を超える)。

次のシーンで、ムザミルが、10年老いた伯母の家まで行った折、馬を愛撫する〔少年時代と重なるシーンだが、馬はもう一度出てくるので、写真は割愛した〕。その帰り、ムザミルはナイマに会う〔偶然というよりは。ナイマがムザミルを待ち伏せていた〕。その会話の中で、彼女は 会うのは2日ぶりだと不満を述べる。「あなた、私を怖がってるか、愛してるか、二つに一つね」と言った後、「学校が終わったら することがないの。川に連れてって」と言って別れる。ムザミルは いつものようにファギリの店に手伝いに行く。すると、初めて奥に連れて行かれる。そして、隠してあった瓶を取り出して紙で包むと、「これを、イギリス人の家に届けてくれ。いつも閉め切ってある所だ。誰にも見られるなよ」と言う(1枚目の写真)。ムザミルは結構な距離を歩いて “イギリス人の家” に向かう。そこは、確かに “泥で出来た家” ではなかった。ただし、ガラス窓は一面のカーテンで覆われ、中は見えない。ドアのない入口から入っていくと、「ちゃんと持ってきたか?」と声がかかる。現れたのは、イギリス人ではなくスーダン人〔以前、イギリス人が住んでいた家?〕。男の名前は、後でスレマンだと分かる。スレマンは、渡されたビンから一口飲んで、「ひどいAragy〔ウォッカの銘柄〕だな」と文句を言う〔イスラム教徒は禁酒なのに、一番強い酒を平気で飲んでいる〕。ムザミルは、お金をもらって戻ると、ファギリに、「アルコールを売るのは禁じられてる」と批判するが、「お前の魂は、生まれた時と同じくまっさらか?」といなされただけ。マドラサに行ったムザミルは、「2.雌牛章」を読み上げる。偽善者をたしなめた部分だ。祈りの最後は、「不信心の徒に対し、私たちをお助け下さい」で終わる。その後、川に行くナイマとムザミルが路地で会ったのは、かつて、「死の息子」とからかい、灰をまぶして棺に押し込め、最後にナイマを娶(めと)ることになる男。そして、ナイル川のシーン。少年時代とよく対比できる(2枚目の写真、後ろには、赤い帽子を被ったゲバラーもいる)。このシーンで、ナイマは、ムザミルと結婚した後について語る。「村中が私たちの子供で一杯になるから、サキーナの息子の村って呼ばれるようになる」「子供たちには、部屋を1つずつあげるけど、一番大きな部屋は私たちの」。そして、一緒に泳ごうとするが、ムザミルは断固拒否する。ワニが怖いからだ。そして、「残された命を縮めないでくれ」と言う。この愛は、どう見てもナイマの片思いだ。もうじき死ぬと確信しているムザミルに、恋の余裕はない。家に帰ったムザミルは、自分の生きた週数の描いてある場所に行くと、「19.マルヤム章」を読み上げる。マリア(マルヤム)について述べた章だ。祈りの最後は、「アッラーに子供ができるなどということはありえない。彼に讃えあれ。彼が一事を決定され、唯『有れ』と仰せになれば、即ち有るのである」で終わる。

ムザミルが2度目にスレマンに酒を運んだ時、スレマンは、「父さんは誰だ?」と訊く。「アルノール」。「まだ生きてるか?」。「長いこと旅行してる」。「俺と お前の父さんは、昔 友達だった」。その後、会話は続くが、重要なのは、代金を取りに、鍵のかかった部屋に一緒に入った時、そこで16ミリフィルムの入った缶に出会ったこと。スレマンに、「映画を知っとるか?」と訊かれ、ムザミルは「ううん」と答える。スレマンと彼の父の唯一の似た所は、映画が好きという一点だった。お陰で、埃をかぶったフィルムの缶が積んである。そこで、ムザミルが 「店が終わったら、このガラクタ、片付けにきてあげようか?」と言ってしまったので、急に不機嫌になったスレマンに追い出される。そして、3度目の訪問。ムザミルが、「どんなトコに住んでたの?」と訊くと、スレマンは「世界中だ。カイロ、パリ、ベルリン、南アフリカ。旅行も一杯した」と答える。ムザミルが、「父さんはアフリカにいるって」と言い、地理感のなさを笑われる。スレマンは 「お前は、この村から一歩も出たことがない。ハルツーム〔首都〕すら行ったことがない。たくさん撮影したから見せてやろう」と提案する。ムザミルは、明日の朗読の練習があると言って断り、逆に、来て欲しいと頼む(1枚目の写真)。そして、翌日、ムザミルの生涯で一番華々しい日。大勢の村人の前で コーランを朗読(暗唱)する。「59.集合章」だ。最後は、「悪魔のように人に向かって、『信仰を捨てなさい』と言う。一度不信心になると、彼は、『私はあなたと関わりはない。本当に万有の主アッラーが恐ろしいのである』と言う」で終わる。イマームは、「ムザミルは、コーランを2つの朗誦法 HafsとAl-Duriでそらんじられる 村で最初の人となった。アッラーの祝福あれ」と褒め、村人から歓声が上がる(2枚目の写真)。イマームは、最後に、「この若者は、偉大な学者になることもできただろうに。だが、残された時はほんの僅かしなかい」と残念がる。窓の外から朗読の様子を見ていたスレマンは、初めてムザミルの運命を知る。翌日、スレマンの家で、ムザミルはハルツームの街なかを撮影した古いフィルム〔カラーだが、色が完全に褪せている〕を映写してもらう(3枚目の写真)。スレマンは、「もし、俺がお前ならナイルを下る。エジプトから地中海、そしてヨーロッパだ」と、示唆する。

恐らく翌日、20年近く留守をしていた父が突然帰ってくる(1枚目の写真)。妻は、抱擁した後、「食事の用意をするわ。旅でお腹が空いたでしょ」と言う。帰宅して、閉まった戸の外に 男性の靴が脱いであるのを見たムザミルは、父が帰ったことを知る。そして、台所に行くと、母が 「父さんが戻ったよ」と、そっけない口調で教える。ムザミルはベッドで寝ている父の胸に頭を置く〔鼓動が伝わってくる〕。夜になり、服を畳んでいる妻のそばに座った夫が、肩に手を置くと、妻は邪険に払いのける〔許したわけではなかった〕。2人の会話が聞こえる。「死よりひどい暮らしだった」。「帰ればよかったのよ」。「侮辱、無気力、屈辱」。「1・2年と言ったでしょ」。「できなかった。あいつ、幾つになる?」。妻は、そんなことも知らないのかという顔で夫を見ると、「あんたが留守した年と同じ。できるなら数えてみたら」としか言わない。ムザミルは、スレマンの家に行き16ミリの白黒映画を観る。1958年製作のエジプト映画『Cairo Station(カイロ駅)』(77分)だ。ムザミルが惹きつけられたのは(2枚目の写真)、駅の構内で飲み物を売っているハマヌという美しい女性の妖艶な姿。スレマンは、「魔の娘が夢に現れたことは?」と訊く。ムザミルは、恥ずかしそうに「時々」と答える。「ハマヌみたいな?」。「ううん、スーダン娘」。「俺がお前の立場だったら、誰かがやって来て『お前は二十で死ぬ』なんて言ったら、王のようにふんぞり返り、すべて持って来させる。食べ物も酒も女もだ。そして、20になったら、舌をぺろっと出す」と、迷信を信じているムザミルに、信じるなというサインを送る。そこに、スレマンがいつも一緒に過ごしている娼婦が来る。スレマンは 「俺のハマヌだ」と、初めて正式に紹介する。スレマンの家を出たムザミルは、ナイル河畔でナイムとデート。ナイマがムザミルに、少女時代に言ったキスの話を持ち出し、「知ってて、愛してるなら いいわ」と言いながらムザミルの頬にキスし、「愛する人が 同じように感じて、『愛してる』と言ってくれることを願うわ」と言ったので、「愛してる」と恥ずかしそうに答える。幸せな気分で家に戻ると、母は、伯母の所に行き、白檀をもらってくるよう言いつける。そこで、伯母が教えたことは 衝撃だった。白檀は、ムザミルの弔いの御香に使うためだった。現実の死が切迫感を伴って再認識される。そして、その夜、3人揃っての夕食の際、母は、スレマンのことを 「悪い噂のある有害な酔っ払い」と断じる。ムザミルは 「聞いたこともないことを教えてくれる。いい人だよ」と反対し(3枚目の写真)、父の顔を見て 「父親のような存在だ」と付け加える〔目の前の父にとってはきつい言葉〕。母:「おやめ。二度とあそこに行って欲しくない。穢れた人と会っている時間など残されてないの」。

ナイマは、窓の外で、日本流に言えば、自分の結納の品が両親に渡されるのを見て危機感を抱く。そして、すぐにムザミルに会い、母が夫を用意していると告げる。そして、「あなたは、母に話すだけでいい、後は私がする」とまで言う(1枚目の写真)。しかし、自分の死で頭が一杯のムザミルは、「なぜ、僕に拘るんだ?」としか言わない。あきらめ切れないナイマは、「私がバカだからよ。あなたは、何もかも怖がってる、私でさえ」と言って優しく抱くが、ムザミルは 何も言わず、壁に向かって手をついて悩むだけ。愛想が尽きたナイマは、そのまま出て行く。場面が変わり、スレマンの家。ギターを弾いていたスレマンは、いろいろと世話を焼いてくれる娼婦に、「ムザミルが2週間も来とらん。変だな」と話しかける(2枚目の写真)。「あのね、スレマン、あの子の物語はとっても数奇なの」。一方、墓地に行った母と父は、息子をどこに埋葬するかで、意見が分かれている。しばらくして、モスクにいるムザミルをスレマンが訪れる。「どこにいた? 待ってたぞ」。「もうすぐ死ぬ男が行く場所、どこか他にある?」。「ここで死ぬ気か?」。「二十を迎えるまで神の家で仕え、慈悲にすがる準備をする」。「まるで、狂信者だな」。「シェィフは 嘘はつかない」。「みんなデルビッシュ〔神秘体験を得るための修行者〕だ」。「シェィフはアッラーの言葉を知り、解釈できる」。スレマンは、1枚の紙を取り出し、「これは、どんな色だ?」と訊く。「白」(3枚目の写真、矢印は紙)。スレマンは、持っていたペンを振り、紙にインクをかける。「今は? まだ白い。インクのシミのせいで、ますます白く見える」。そう言うと、紙を下ろし、「お前は、罪も犯しとらんのに 赦しを求めている。罪を犯してみろ。そうすれば、純白とインクの違いが分かるかもしれん」と教える。

ナイマの母が、ファギリの店に来て、応対に出たムザミルに ペプシ2ケースなどを注文する。ムザミルは、ナイマの婚約が行われることを知る。あれだけ冷たかったくせに、ショックを受けたムザミルは、スレマンの所に行き、「彼女が婚約する」と悲嘆にくれる。それだけならまだしも、「ナイマは なんで同意なんかしたんだ?!」と罵ったので、スレマンに 「地獄に落ちろ」と叱られる。「何を期待してた? ナイマがお前を好きだったのは、彼女が狂ってたからだ。気違い同士の本能だ。生ける屍を好きになるんだからな。お前のすべてに死がつきまとっている。俺の周りには生きてる者がいて欲しい」。こう言うと、スレマンは 「出て行け」と命じる(1枚目の写真)。村に戻ったムザミルは、家に帰りたくないので路地に腰を下ろしていると、ナイマを中心に4人の女性が前を通り過ぎて行く。ナイマは、ムザミルの姿を認めると(2枚目の写真)、すぐにそっぽを向く。「ナイマ」を声をかけるが、そのまま立ち去る。ナイマの目には涙が溢れるので、苦渋の決断だったことが分かる。一方、スレマンは、「白い紙」のシーンの後、自宅で咳き込む場面があったが、次のシーンでは、ベッドに寝て胸を押さえ、娼婦が看病している〔肺炎?〕。そして、ナイマの婚約の日。正装した彼女は、鏡の前で考え込む(3枚目の写真)〔後悔しているとしか思えない〕。ムザミルは、あんなに怖がっていたナイル川に、「みんな僕のせいだ!」と叫びながら、飛び込んでいく。それを見て助け出したのは父。20年近く息子を避けてきた父の方が、ずっと喪服を着ていた母より、人間味が残っている。

ムザミルは、恐らく翌日、一度は追い出されたスレマンの家に戻る。スレマンはイスに座り、身動きせず、目を閉じている。心配になったムザミルは、頭を胸につけて鼓動を確かめる。音がしない。父のように慕ったスレマンは逝ってしまった。すると、現実か幻かは分からないが、伯母の馬が現れる(1枚目の写真)〔この場面の意味は理解できないが、非常に象徴的だと考えて紹介した〕。スレマンにずっと付き添ってきた娼婦〔実質は、スレマンの妻〕は、一足早く死を知ったため、自宅に戻り 涙を流している。ムザミルが、家に帰り、“週数の描いてある場所” に行くと、母が、それまでの数を書いた紙を持っている。ムザミルは、紙を受け取り、壁に追加された印を数え始める。そして 「20だ」と言う(2枚目の写真)〔今夜が生きている最後で、明日二十歳になる〕。「数え間違いじゃない?」。ムザミルは答えずに出て行く。ムザミルは、スレマンの娼婦の家に行く。心優しい彼女は、「スレマンが逝ってしまった。私たち2人を置いて」と言って、自分の子供のように思っていたムザミルを泣きながら抱きしめる。ところが、ムザミルは 「挨拶しにきたんじゃない。男がやりたがることがしたい」と言い出す。「分かった。若い娘を呼ぶわ。そうすれば体験を共有できるでしょ」。「時間がない。今夜しか生きられない。あなたが欲しい」。「スレマンが死んだばかりなのよ」。ムザミルはお金を見せる(3枚目の写真、矢印)。彼女は、「しまいなさい!」と怒る。「スレマンさんは、『罪を犯してみろ』と言った」と、ムザミルは 浅はかな申し出の理由を述べる。そして、「男として僕が欲しくない?」と言うと、必死の抵抗を無視して襲いかかる。彼女は、やむなく、母のようにムザミルを受け入れる。

その頃、村人は、サキーナからの通報を受け、いなくなったムザミルを捜し回る(1枚目の写真)。イマームは、「溺れたに違いない。死んだ子供は みんなナイルで溺れた」と言い、舟を出させる。ムザミルの父は、息子が川で泳げたことを知っているので 舟には乗らないが、引き留めもしない。朝日が差し込むと、サキーナは、“週数の描いてある場所” に水甕を持って行き、彫った記号に水を掛ける(2枚目の写真、矢印)〔もう、不要になったため?〕。そして、その次に、眠っているムザミルを、“少年時代のムザミル” が見守る、という表象的なシーンが挿入される。少年は、生きているか確かめるために、胸に耳をつける(3枚目の写真)。

その “夢” が醒め、ムザミルが目を開く。窓の外には太陽の光が溢れている(1枚目の写真)。彼は二十歳になり、でもまだ死んでいない。ムザミルは、路地に出て上着を着ると、歩き始める(2枚目の写真)〔いつもの居住地ではないので、誰もムザミルに気付かない〕。ムザミルが、鉄道の線路に出ると、線路沿いの道をトラックがゆっくりと走って行く〔凸凹道〕。それを見たムザミルは、トラックを追いかける(3枚目の写真)。映画は、追いかけ続けるところで終わる。かつて、ムザミルの父も線路沿いに歩いていった。もし、ムザミルがトラックに追いつけなくても、首都ハルツームまでの距離は60~200キロ(州の最北端と最南端)。歩けない距離ではない。ムザミルは、村では “予言に従って死んだ” とみなされている。だから、今後、誰も知らない新たな自由の民として、ハルツームから世界へと出て行くに違いない。

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